【インタビュー】グローバルな社会で自らの価値を高め、国の枠を超えて活躍するために、なるべく若い時から世界の舞台へと打って出よう【第1回】 | 会計士の履歴書
会計士の履歴書 > 特集一覧 > グローバルな社会で自らの価値を高め、国の枠を超えて活躍するために、なるべく若い時から世界の舞台へと打って出よう【第1回】

グローバルな社会で自らの価値を高め、国の枠を超えて活躍するために、なるべく若い時から世界の舞台へと打って出よう【第1回】

カルビー株式会社 / 石田 正

グローバルな社会で自らの価値を高め、国の枠を超えて活躍するために、なるべく若い時から世界の舞台へと打って出よう【第1回】

カルビー株式会社 / 石田 正

今回、特集でご紹介するのは、カルビー株式会社で監査役を務める石田正(いしだただし)さんです。
監査法人(海外駐在含)から、日本マクドナルド、セガサミーホールディングスといった名だたる企業のCFOを経て、カルビー株式会社の監査役を現任。華麗な経歴であるにもかかわらず、親しみやすいキャラクターである石田さんのルーツを探るべく、多くの挑戦やそこから得られた経験についてお話を伺いました。

本特集は3回に分けて掲載いたします。第1回は、会計士になったきっかけと外資系事務所を選んだ理由についてです。

カルビー株式会社
多くのロングセラーとなるヒット商品や多様化する顧客のニーズに応えた商品を生み出し続けてきた日本のトップ企業。国内においては、スナック菓子市場で50%以上のシェアを有し、特に主力の「ポテトチップス」や「じゃがりこ」等を含むポテト系スナックにおいては70%を超える高いシェアを維持している。シリアル食品では「フルグラ」が市場の拡大を牽引し、シリアル市場においてもトップシェアを誇る。海外においては、国内で培った自然素材の加工技術を活かして、現在は9つの地域で現地の生活者のニーズに合わせたスナック菓子販売を行っている。

キャリアサマリー
1974年1月 アーサーヤング(AY)東京事務所入所
1980年1月 朝日監査法人へ転籍
1980年7月 公認会計士登録
1993年7月 朝日監査法人代表社員
1996年7月 日本マクドナルド(株)上席執行役員(CFO)
2003年5月 同社代表取締役副社長
2005年4月 (株)セガサミーホールディングス専務取締役 (CFO)
2010年4月 日本CFO協会主任研究委員(現任)
2011年1月 カルビー(株)常勤監査役
2019年7月 カルビー(株)監査役

1会計の世界への入り口は、“体育会系”だったこと

Q:石田さんが大学を卒業するころは、会計士という職業は今ほど一般的ではなく、専門学校などもなかった時代でした。そんな中で、会計士になろうと思ったきっかけは、何だったのでしょう。

入り口となったのは、明治大学の商学部に入学したことです。少し遡ってお話しします。私の実家は江戸川区で代々続く酒屋でしたが、ちょうど私が生まれる半年前に父親が亡くなりました。そして、母親は酒屋の免許を取り上げられ酒を売ることができなくなったので、残ったたばこ屋で糊口を凌いでいました。そんな中、周囲の大人たちからは、「いつかお前が酒屋を再興するのだよ」と言われて育ったこともあり、商業高校を出て、将来酒屋になるつもりでいました。当時、都立の高等学校は目的が明確に分かれていました。普通高校生は卒業後大学へ、商業高校生は卒業後半分くらい実家の酒屋、米屋、魚屋など父親の店を継ぐか、銀行や証券会社で窓口業務に就くかです。工業高校では父親のやっている工場を継ぐか大手メーカーの製造現場へ行くかでした。職業高校から大学を目指す生徒は殆どいませんでした。今のように全ての高校生が大学を目指す金太郎飴の世界ではなかったのです。私も卒業したら何年か親戚の酒屋へ丁稚奉公し、親父の代で潰されてしまった酒屋を再興させるために商業高校に入ったのです。
高校三年の時、環境が変わりました。母親が体を壊し無理がきかなくなったのです。たまたま東京の土地の値段が上がってきており、やむなく、多少持っていた土地を手放し、経済的に少し余裕ができたのです。そういう環境の変化で親父の遺言を守らず大学というところへ行ってみようかな、と思ったのです。下町の商家の若者にとって「明治の商科」というのは結構人気がありました。というわけで明治大学の商学部を受験したのですが見事に落ちました。受験勉強というものをしたことがなかったのですから当然ですね。一年浪人してなんとか合格しました。この時、予備校という受験機関があるのを初めて知りました。みんな目的の大学に入るため勉強をしており、友達を作るとかクラブ活動を楽しむということはありませんでした。この時の無味経験が大学に入ったら体育会に入ろうと思ったのかも知れません。

駿河台校舎の地下に体育会の部室が並んでいます。山岳部やヨット部などいくつか回った後、先輩部員の勧誘にあい、ワンダーフォーゲル部に入りました。先輩の言う女性部員もいることはいたのですが、人数は少なく、殆ど一緒に行ったことはありませんでした。山に行かない時は皇居の周りを走り、そのまま地下の温水プールに入り汗を流して素っ裸で部室に戻ります。時々間違えて地下におりてきた女子学生がキャーと言って逃げます。プールのあと、校舎の隣にある横山という酒屋でビールを飲むのが日課でした。 授業は適当に出て残りは山に行っていました。部活動は奧会津や奥秩父など道があまり整備されていない原生林の 森に入りテントを張って山野を跋渉するという、いわゆるワンダーフォーゲルでした。もちろん泊まるのはテントです。当時、ワンゲルは200人くらいの大所帯で一つの社会を構成していました。まあ、キャプテンというボスを頂点にした動物園のサル山のようなものです。奥鬼怒の山小屋建設でボッカをさせられたりしながらも結構楽しかったです。今から考えるとワンゲルで人間の作る組織はこういう形ででき、運用されるのだということを学びました。

次回、お話ししますが三年生になったとき仲間とヨーロッパへ自転車旅行をしたこともあり、結局卒業まで五年かかりました。すでに酒屋を再興する話は母親もあきらめていましたし、かといって企業に就職する気もなく、卒業後の進路をいとこの弁護士に相談に行ったのです。
彼から、国家資格を取ることを勧められました。「司法試験も会計士試験も、頭よりも体力勝負だから、体育会系の君にぴったりだ。商学部出身なので、会計士の方がよいのではないか」。そんなアドバイスに従い、会計士の試験の受けてみることにしました。大学の五年間、体育会にいて体力には自信があったのです。大学を24歳で卒業してから、大学の付属機関で明治大学経理研究所の特別会計研究室に入り、受験勉強を三年間やって何とか二次試験に合格しました。当時は今のように受験のための専門学校などはなく、そうした機関で仲間と切磋琢磨しながら勉強するのが一般的でした。当時の受験仲間とはいまだに付き合いが続いており、今考えるとクラブ活動のようでした。

2学生時代の貧乏旅行が、人生を方向づけた

大学時代の学びの中で、現在につながるようなものはありましたか。

大学時代、山ばかり登っており勉強はほとんどせず、自慢にもなりませんが毎年留年すれすれでした(笑)。それでも人生における財産となった五年間ではありました。
二年生になった時、仲が良かった二人の仲間と話しているうち、誰ともなく「海外に行こうか」という話が出て、二年生を終えた時、一年間休学して海外旅行へと出かけることにしました。
行先はヨーロッパ、自転車でサイクリング。ちょうど東京オリンピックをきっかけに外貨持ち出しが自由化され、500ドルまでは国外に持ち出してもよいことになったのです。私たちも500ドルを全財産として、最低限の荷物とテント、それに英和辞書を自転車に積み、横浜からソ連のバイカル号という船で極東の港、ナホトカについたのです。当時は今のような変動相場制ではなく1ドル360円の固定相場の時代、円は極東の島国のローカル通貨で、外国に一歩出たらただの「紙っぺら」です。
横浜で母親からなけなしの5万円を「何かの時に使いなさい」と渡されたれたことはいまだに忘れません。サイクリングの途中、懐が寂しくなり5万円をドルに換えようと思ったのですがどこの銀行でも相手にしてくれませんでした。結局チューリッヒのお土産屋で替えることができましたが、なんと1ドル500円でした。今考えると隔世の感があります。
当時の若者にとって、北回りルートとしてナホトカからシベリア鉄道でモスクワを経由してヘルシンキかウィーンへとたどり着くコースが最も安かったのです。私たちが乗ったシベリア鉄道は、イルクーツクからモスクワまで「軍事上の秘密」とされ、外国人に鉄道での移動は許可されておらずやむなく飛行機に乗りました。ヘルシンキから船でスウェーデンのストックホルムに着き、三ヶ月ほどホテルで皿洗いをして目的地のマルセイユまでの旅費と生活費を稼ぎました。足は自転車、宿泊はキャンプ場かユースホステルです。自転車で走破した距離は約7,500キロでした。帰路は南回りの安いルートであるマルセイユからカンボジ号というフランスの客船で海路一ヶ月かけて横浜まで戻りました。船室はもちろん三等で船底の8人部屋、奇人変人の集まりでした。一ヶ月一緒にいたため仲良くなり、カンボジ会という集まりが今でも続いています。旅行は絵にかいたような貧乏旅行でしたがヒッチハイクのはしりで、今考えると本当に楽しく、「もっと世界のいろいろな国を見てみたい」と強く思うようになったのです。当時、お金はないが世界に行きたい日本の若者に大きな影響を与えたのが、作家で政治評論家でもある小田実です。彼の書いた「何でも見てやろう」は我々にとりバイブルのようなものでした。
九ヶ月間、英語がほとんど話せない状態から辞書ひとつで各地を周り、さまざまな人たちと交流した経験(おじさんに貞操を奪われそうになったこともありましたが)により、自分の中で外国人とのコミュニケーションや人種の壁が消えてしまったのが大きかったです。この経験が後の自分の生き方を方向づける、大きな出来事だったと思っています。結局、明治大学には会計士の受験勉強時代も含み、八年間お世話になりました。本当に感謝しています。

12