三冨正博(みとみまさひろ) | 会計士の履歴書 | 活躍する会計士たちの仕事やキャリアを紹介

株式会社バリュークリエイト

代表取締役

三冨 正博 みとみ まさひろ

「ダメ元」を大切に人生をワクワクと切り開く
開拓者タイプ
開拓者タイプ

1964年2月13日生まれ(56歳)
神奈川県出身 ・ 東京都在住
青山学院大学 経営学部 卒業

会計士データ
  • 年齢
    50代
    回答者全体の
    2.8%
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  • 役職
    代表取締役
    回答者全体の
    35.8%
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  • 企業種別
    事業会社
    回答者全体の
    42.0%
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  • 出身
    関東
    回答者全体の
    54.2%
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開拓者タイプの特徴
  • 内向的
  • 臨機応変型
  • 大局タイプ
  • 個人主義
  • 伝統型
  • 外向的
  • 計画管理型
  • こだわりタイプ
  • 集団主義
  • 革新型
  • 30
  • 20
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  • このタイプの割合
    回答者全体の
  • 2.8%

活動的でエネルギッシュ。
そして勤勉であるため、仕事に対して真面目に積極性を持って取り組むことができる。
また知的好奇心があり心に壁を作らない傾向にあるため、他人の意見や新しい考えを柔軟に取り入れることができる。
状況に対して過敏にならずストレスをうまく対処することができるが、自分のペースを重んじるため、場合によっては協調性がないと受け止められることも。
上昇志向があるため挑戦することをいとわない。

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1キャリアサマリー
1987 年
アーサーアンダーセン東京オフィス入社 監査部門でスタッフとして働く
1991 年
アーサーアンダーセンサンフランシスコオフィスへ転勤 監査部門でシニアとして働く
1994 年
アーサーアンダーセンシアトルオフィスへ転勤 監査部門でマネージャーとして働く
1996 年
アーサーアンダーセンアトランタオフィスへ転勤 監査部門でシニアマネージャーとして働く
2000 年
アーサーアンダーセンを退職し、日本に帰国してベンチャー企業へCFOとして参画する
2001年
株式会社バリュークリエイトを創業し代表取締役として現在に至る
2009 年
慶應義塾大学ビジネススクール非常勤講師に就任する(現任)
2014 年
株式会社SUMCO社外取締役に就任する(現任)
2017 年
株式会社大塚家具社外取締役に就任する(2019年まで)

大学卒業後は外資系会計事務所に入り、日本で4年の経験を経て、アメリカに渡り9年会計士として活動。その後日本に戻りベンチャー企業CFOとして半年参画、その後に仲間と会社を創業して今年で19年になります。なぜこのようなキャリアを歩むことになったのか。それは会計士の資格を取ろうと思ったきっかけでもあり、この点が僕の人生において一番大切なことなので以下で触れたいと思います。

小学生の頃は素直で天真爛漫な少年で、正直あまり勉強をした記憶もなく、毎日サッカーに明け暮れていました。
ところが、中学、高校と進むにつれて、この素直さが危険な方向に進んでしまいました。
「素直である」ということは、良いことのように思われますが、実際のところ全くそんなことはなく、僕の場合は自分の考えや感情よりも親、学校、社会の考えを優先させるようになり、だんだん親、学校、社会の規範、期待に沿って考え動くようになっていました。
簡単に言えば「いい大学に入っていい会社に入る、それがいい人生である」というような思考でしょうか。
この思考自体は悪いとは思っておらず、ある意味親として子供に期待する当然の願望だと思っていました。
ところが、このような方向に進めば進むほど日常はどんよりとし、勉強にも身が入らず成績も上がりませんでした。そして成績が上がらないことにがっかりしながらもやる気のない勉強をし、当然成績は上がらず、という袋小路に入ってしまったのでした。
中学、高校と全くパッとしない人生を歩んでいましたが、疑問を持つこともなく、人生とはそんなものだろうと諦めている自分もいました。
そして、結果として大学受験は失敗に終わりました。
当時の自分はこの失敗を受けて「いい大学に行けなかったので、いい会社に入れず、いい人生は歩めない」と思ったのでした。
今から思えば大した挫折ではありませんが、当時はかなり落ち込みました。
そう、人生に絶望したのでした。

そしてこの絶望から僕のキャリアはスタートします。
なぜならこの時の絶望から全てのその後の意思決定は始まったからです。
大学受験失敗の経験から学んだことは、自分の気持ちを無視して親や学校や社会の期待に沿って動いても、成果が出ないと誰も助けてくれないし、逆に避けられる存在になるということでした。
そこでどうしたか?
僕はこれからの人生においては、親や学校や社会の規範は尊重するといえども、なによりも自分の気持ちに素直に考え行動しようと決意しました。より具体的には、自分のワクワクするような気持ちに沿って行動しようと決意したのです。決意と言ってもなかなかそれまでの思考を変えることは難しいわけですが、まず僕は決意をしてそれから歩んでいこうと思いました。
その時の気持ちは「ダメ元」。
もともとうまくいかない絶望からのスタートなので「失敗したっていいじゃないか!」という感じでしょうか。
そして、もう一つ決意したことがあります。
いい大学に行けず、いい会社にも入れないと思ったので、手に職をつけようと思い会計士の資格を「ダメ元」で取ろうと思ったのです。
当時会計士の試験はとても難しく、親をはじめ僕の周りの人々は受からないだろうと思っていました。
ところが、僕はそれらの意見を気にしなくなっていました。
もともとダメな自分なのですから、別に合格しなくたって失うものはなにもありません。
そしたらなんと合格することができました。
会計士になってからのキャリアはすでに書いた通りです。

2監査法人における経験およびその後のキャリア選択のきっかけ

1987年当時、監査法人の選択は国内系と外資系があり、多くの方は国内系を選択していましたが、僕は海外に行きたいという想いから外資系を志望しました。
事務所の選択にあたっては、僕はお会いする方に二つの質問をしました。
「どの会計事務所に行ったらいいか?」と「どの会計事務所は絶対いかない方がいいか?」の二つです。
いろいろな会計士の方に聞いてみると、みなさん「どの会計事務所に行ったらいいか?」という質問については「うちの会計事務所に来い」ということでした。ところが不思議なことに「どの会計事務所は絶対いかない方がいいか?」との質問に偶然にも全ての方が同じ会計事務所の名を挙げました。
「アーサーアンダーセンだけは絶対いかない方がいい」というのでした。
その理由を聞くと、「アーサーアンダーセンは仕事が半端なく厳しくすぐクビになるから」ということでした。
そして僕はアーサーアンダーセンに入ることを「ダメ元」で決めました。
なぜなら、どうせ入るなら一番厳しい会計事務所に入って鍛えていただいた方がいいだろうと思ったからです。

実際に海外に行ったのは入社4年後の1991年で、サンフランシスコにトレイニーとして行ける機会がやってきました。
この時、東京事務所長からは「アメリカのアーサーアンダーセンは本当に厳しいところだが君は大丈夫なのか?」と聞かれましたが、僕の回答は「ダメならクビにしてください、もともと『ダメ元』なんですから」というもの。そう、このときも「ダメ元」でした。

アメリカでは、サンフランシスコオフィスの次にシアトルオフィスで働きました。本来このぐらいになるとそろそろ日本に戻るべきだったのですが、僕は自分のワクワクを優先していましたので、東京に戻らずシアトルに赴任しました。
そしてシアトルから次へ進むことになりました。この時は、東京、サンフランシスコ、メキシコシティー、トロント、そしてアトランタが候補として挙がりました。そして最終的にはアトランタにしました。既にサンフランシスコとシアトルと西海岸を2箇所経験していたこと、また海外を転々としていきたいということで、それなら次は南東部がいいだろうとの判断でした。
シアトルのアメリカ人の事務所長に「次はどこを選んだのか?」と聞かれてので、「アトランタ事務所に行く」というと、彼は目を見開いてとてもびっくりした表情でこう言いました。
「君は知らないのか、アトランタオフィスは全米でも一番仕事が厳しい事務所だぞ、そんなオフィスを選ぶとはどうなっても知らないぞ」というものでした。ちなみにここで「どうなっても知らないぞ」ということは「クビになっても知らないぞ」ということです。
僕はその時初めてアトランタオフィスが全米で一番厳しいオフィスだということを知ったわけですが、その時の僕の気持ちはまたも「ダメ元」。もともと「ダメ元」でスタートしているのですからクビにしたいなら勝手にすればいいという感じでした。
そして、実際にアトランタオフィスに行って働いてみると。

なんとそこが僕にとっては一番働きやすい環境で、本当に水を得た魚のように楽しく仕事を行うことができたから不思議です。確かに仕事は厳しいですが、それはただ単に「仕事の基準が高い」ということでしかありません。野球をやっているなら速い球を投げたいということと同じです。プロフェッショナルとして仕事をしているのですから、常に高い基準で働くことにまさにワクワクしていました。
当時は意識していませんでしたが、今から振り返ると僕の思考がアーサーアンダーセンの文化とマッチしていたのだと思います。

そうであれば、このままアメリカにいるという選択が正しく思えるところですが、後の「仕事をしている中で、心が大きく動いた瞬間」で説明するのでここでは省略しますが、日本に帰ってくることを決めて「ダメ元」で日本に帰ってきました。

日本に帰ってきて、たまたま知り合いの紹介からベンチャー企業に入ってみましたが、社長と考え方が合わずビックリしました。それまでの13年間とても楽しく働いてきて、ある意味それを当然のことと思っていましたが、実際にベンチャーに入ってみて、それまでいたアーサーアンダーセンという組織がとてつもなく自分に合っており、思う存分実力を発揮できる環境であったのだと痛感しました。そして、この経験が当時一緒のベンチャーで働いていた相棒である佐藤と会社を始めようと思ったきっかけでした。

3今現在の仕事の内容、特徴、キャリアパス

バリュークリエイトという会社を2001年に佐藤と設立して2020年5月で19年になリます。佐藤はもともと野村証券のトップアナリスト、一方僕は外資系会計事務所の会計士。そう、二人とも数字にとても強いのです。この二人は見た目も性格も全く違い、多くの方はなぜこの二人が一緒に会社をやっているのかと不思議がっていますし、実際に起業した当初は多くの方から「この二人が一緒にビジネスをしてもうまくいかない」と言われました。そして今回も「ダメ元」で起業したわけですが、二人にはある共通点があります。

それは数字、つまり財務諸表に表れる価値(それを僕らは「見える資産」と呼んでいます)も大切ではあるが、財務諸表に表れない価値(同様に『見えない資産』と呼んでいます)が大切であること。つまり、「見えない資産」と「見える資産」の両者から企業価値は創造されているという信念を持っていることでした。
特に創業した2001年当時、日本はITバブルの後遺症で公開企業の株価は大変低い水準になっていました。それに輪をかけて心無いアナリストは企業の経営者にあるはずの「見えない資産」には全く触れず、短期的な利益を追求することを求めていましたので、企業の経営者も自信を失くしているように見えました。そこにもともとある「見えない資産」を意識し「見える資産」へ結びつけることを通じて企業価値を高めていくアドバイスのニーズがあると思い、それが当たりました。

2009年には広告代理店出身の岡部がバリュークリエイトに参画し、バリュークリエイトはデザイン会社に進化しています。
当時「バリュークリエイトはデザイン会社になります!」というと、多くの方から「意味がわからない」とご批判をいただきましたが、「ダメ元」でやってみたところ、現在社員30名のうち約半数は美大やデザイン学校出身のデザイナーであり、名実ともにデザイン会社となっています。

さらには、2018年に韓国人、2019年にスペイン人、そして今年(2020年)にはインドネシア人と中国人とアイルランド人が入社して国籍もグローバル化してきています。岡部と佐藤と僕のバリュークリエイトの経営陣は社員の半数を日本人ではない方にしたいと思っていますので、今後もこの方向性は変わりません。

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