【インタビュー】目指すは日本一のアカウンティング・ファーム。企業の成長をサポートし、日本経済の発展に貢献したい【第2回】 | 会計士の履歴書
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目指すは日本一のアカウンティング・ファーム。企業の成長をサポートし、日本経済の発展に貢献したい【第2回】

株式会社AGSコンサルティング / 廣渡 嘉秀

目指すは日本一のアカウンティング・ファーム。企業の成長をサポートし、日本経済の発展に貢献したい【第2回】

株式会社AGSコンサルティング / 廣渡 嘉秀

今回、特集でご紹介するのは、株式会社AGSコンサルティングで代表取締役社長を務める廣渡嘉秀(ひろわたりよしひで)さんです。
監査法人から、AGSコンサルティングで活躍し代表取締役社長を現任。映画監督を目指していたという多彩なバックグラウンドを持ちあわせ、リーマンショックなどの苦境にも打ち克ち、今後は日本一のアカウンティングファームを目指すという、バイタリティ溢れる廣渡さんについてお話を伺いました。

本特集は、3回に分けて掲載いたします。第2回は、AGS入社から、リーマンショックで窮地に立たされるまでです。

株式会社AGSコンサルティング
会計・税務を中心とした総合的なサービスを提供をするアカウンティングファームであり、企業の成長に貢献し、日本経済の発展に寄与する。経営層に対して経営管理全般に関するサービスを提供する「マネジメント・サービス」をとおして、職業的専門家として真の意味での「クライアントファースト」を貫くことを念頭にサービス提供をする。

キャリアサマリー
1990年 早稲田大学商学部卒業
    センチュリー監査法人(現:新日本監査法人)に入所
    国際部(ピートマーウィック)に所属
1994年 公認会計士登録
    株式会社AGSコンサルティングに入社
    廣渡公認会計士事務所を開設
2004年 新日本監査法人を退社
    株式会社AGSコンサルティング代表取締役専務に就任
2006年 株式会社AGSコンサルティング代表取締役副社長に就任
2008年 株式会社AGSコンサルティング代表取締役社長に就任
2008年 AGS税理士法人代表理事に就任 現在に至る

1新たな領域に飛び込み、2年間は死ぬ思いで働いた

監査法人から、AGSという新天地に移り、どのような業務を手掛けましたか

AGSに入社後は、資産税を担当する部署に配属され、税務と中小企業へのコンサルティングを担当することになりました。1990年代後半は、富裕層向けの資産税対策のニーズが高まっていました。税務に関してあまりにも知らないことが多く、よちよち歩きの状態でしたが、周囲の税理士の方々がとても協力的で、夜中まで指導をしてくれたのはありがたかったです。2年ほどは、死ぬ気で働きました。
実際にお金が動く税務の仕事はおもしろく、のめり込んだこともあって事業承継や相続の分野が徐々に得意になっていきました。こうして入社して3年は、一担当者という立場でのびのび仕事をしていました。
ちょうどベンチャー企業が台頭し始めた時期であり、若くて元気のある私に、ベンチャー企業の案件が回ってきました。業務はIPOのサポートで、資本政策が絡むため相続税の知識は必須でしたが、多くの会計士は相続税がわかりませんでしたから、「ベンチャー担当で相続税もわかる」という私のような存在は珍しく、そこに手ごたえを感じました。当時は、会計と税務のトータルサービスを提供できる人材は乏しく、ブルーオーシャンでした。それでベンチャー企業に対する営業を始めた結果、多くのクライアントを獲得することができました。
1996年あたりからベンチャー企業の上場熱は加速し、99年からはナスダックジャパンやマザーズといった新興企業向け新市場が開設されました。AGSの業績も右肩上がりに拡大し、IPOをビジネスの柱とすべく、AGSの中にIPO事業部を立ち上げました。

2IPO事業部を成功に導き、役員へと昇進

IPO事業が成功した一番の要因はなんでしたか

やはり独自性が高かったからだと思います。私たちの事業部は、税務とIPOを一緒に議論できる、唯一といっていい会社でした。そうしたスキルも最初は全部、自分たちで編み出していました。例えば、現在のストックオプションの前身にあたるワラント債を使って相続税対策をしたり、財産保全のため持ち株会社を作ったりと、他社では提案できなかった手法を数多く提案していきました。今ではポピュラーな手法ですが、当時は誰も知りませんでした。

そうしてAGSで成果を上げる一方で、監査法人で監査も手掛けられていたそうですね

今では認められなくなってしまいましたが、当時は会計士が「二足の草鞋」を履くことができました。私は正直、監査があまり好きではなかったのですが、センチュリー監査法人内に虷澤の監査のチームがあったので、籍だけはそのまま残してあったのです。
ベンチャー企業のIPOに没頭している中で、コンサルティングした会社が上場した後に監査も担当する、といった案件がいくつかありました。当時は、ITや不動産流動化といった新たな分野が登場してきたばかりで、その実態がどういったものなのか、知っている人が監査側に少なかったのです。例えばIT分野では携帯電話の「着メロ」が出始めてきていたけれど、それがどういったビジネスモデルなのか監査人に説明してもよくわからず、途方に暮れるといった具合でした。
センチュリー監査法人においても、新技術に対する監査ができる人間はほぼ皆無であり、「自分で営業してIPOをしたのだから、監査まで責任を持ってほしい」と言われていました。ただ、監査実務をやっていたわけではありませんので、実務の業務量としては、AGSが90%で、監査は10%程だったと思います。
余談ですがこの時期に、私はセンチュリー監査法人でパートナーに昇進しました。31歳という若さでのスピード昇進だったので、今だに抜かれていないと思います(笑)。

その後、2004年に監査法人を正式に退所なされますが、決断に至った理由をお聞かせください

IPO事業部で成果を上げたこと等が評価され、私は2002年に、AGSの役員になりました。その前後からIPO事業だけではなく、AGS全体を見るようになり、プレイングマネージャーという立ち位置になりました。役員になった直後くらいから、私は社長の虷澤に対し、監査法人を辞めるべきではないかと伝えていました。それまでは、虷澤が理事や監事を務めていたことなどから、AGSは何となく大手監査法人に紐づいたようなポジショニングでしたのでそこからの巣立ちの時であると考えての提案でした。
その後、私個人は2004年に監査法人を退所し、AGSでは専務に昇格します。その翌年に虷澤もまた身を引き、AGSというブランドを前面に押し出していく体制をとりました。この決断が会社としての大きな転機になったと考えています。
AGSブランドを確立していくために、私は会社の業務を改めて見直し、「マネジメントサービス」という新たな概念を打ち出しました。そして、AGSはマネジメント層に対するサービスを提供する会社である、と定義した上で、経営理念をまとめた「AGS way」を社内向けに発表。マネジメントサービスの具体的なラインナップを作り込んでいきました。これが現在のAGSのビジネスの土台となっています。

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