【インタビュー】上場から1年で企業価値が8倍以上に!?他の追随を許さない発想力と決断力はどこから生まれたのか? | 会計士の履歴書
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上場から1年で企業価値が8倍以上に!?
他の追随を許さない発想力と決断力はどこから生まれたのか?

ジャパンエレベーターサービスホールディングス株式会社 / 今村 公彦

上場から1年で企業価値が8倍以上に!?
他の追随を許さない発想力と決断力はどこから生まれたのか?

ジャパンエレベーターサービスホールディングス株式会社 / 今村 公彦

あずさ監査法人国際部から、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム経営管理本部副本部長を経て、ジャパンエレベーターサービスホールディングスに参画された、今村公彦(いまむらきみひこ)さんをご紹介します。2017年に経理財務部担当部長に就任。会社を飛躍的に成長させた手腕が会長から評価されて、2018年4月より取締役副社長執行役員CFO 経営管理本部長に就任されました。今村さんにしかない発想力と決断力がどのように生まれたのかお聞きしたいと思います。

ジャパンエレベーターサービスホールディングス株式会社
事業内容は、エレベーター等の保守・保全及びリニューアル・部品の販売業務。独立系保守会社として、高度な技術力をもつ技術スタッフを育成するとともに、主要パーツはメーカーの純正部品を使用し、ユーザーの安心安全を守る。リモートでエレベーターの運転状況やコンディションを把握できる、遠隔監視・診断サービスを導入し、24時間365日フルサポートを行う。43,000台を超える保守契約数を誇る(2018年3月末現在)。北海道、東京、神奈川、東海、関西など国内69拠点。1994年設立。2017年東京証券取引所マザーズ市場に上場。従業員数998名(2018年3月末現在)。東京都中央区日本橋に本社を構える。グループ会社は国内7社及び海外3社。

キャリアサマリー
1978年岡山県岡山市生まれ。岡山白陵高等学校中退後、大検を受けて20歳のときに香川大学に入学し卒業。

2006年12月、有限責任あずさ監査法人国際部に入所。2013年に、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社(DAC)に入社。2014年より経営管理本部グループ経理財務部長、2016年より経営管理本部副本部長に就任。

2017年1月からジャパンエレベーターサービスホールディングス株式会社に転職し、経理財務部担当部長に就任。同年4月より専務執行役員経理財務本部長、同年6月に取締役就任し、2018年4月から、取締役副社長執行役員CFO 経営管理本部長に就任。

大学在学中に邦楽を嗜み、琴に関しては師範試験(生田流正派)を受け、全国1位で免許取得。

1型にはまらない生き方。高校中退、琴の師範から公認会計士という職業にたどり着くまで

高校中退という意外な経歴を歩まれているそうですが、その当時のことをお聞かせください。

実は、初恋の子が岡山大学の附属中学を受験すると聞いて、自分も受験しました。ところが、その子は落ちて僕だけ合格してしまいました。

仕方なく入学した中学校はレベルが高く、そこから岡山県では一番偏差値の高かった中高一貫校に進みました。ところが高校はスパルタ式で、周りはみんなガリ勉系で勉強漬けの毎日。強制される勉強が大嫌いだったので、深く考えず16歳で中退しました。それからはアルバイト等で生計をたてていました。

20歳の時に「このまま働いてばかりの人生だとつまらない」と思い大検を受け合格しました。資金的に余裕がなくて国立大学しか入れなかったのと、高校1年の途中で学校を辞めていたので、5科目勉強するのが本当に大変でした。時間も4か月しかなく、予備校や塾に行くお金がなくて独学で勉強したので、公認会計士試験のほうがよっぽど簡単と思えるくらい厳しかったです。努力の甲斐あって、なんとか国立の香川大学に滑り込むことができました。

大学に入ってからは何かエピソードはありますか?

大学に入った当初はアルバイトばかりでしたが、3年生くらいから琴や三味線など雅楽器を演奏する邦楽部の活動が中心になりました。部長が留学するから代わりに部長をやってくれと頼まれて、他の部員は大和撫子系な女子ばかりでしたので、キャラクター的に私が部長に就任しました。

やるからには一番になりたいというのが自分の悪い癖で、私が部長になった途端に練習時間が数倍となり、スパルタ系の部になりました。「俺が部長をやるからにはトップを目指す」と宣言して、「ついて来れない奴は来なくていいから」と厳しいことを言いつつ、朝から深夜まで練習し続けました。タバコを吸ってちかくの讃岐うどん屋でうどんを食べる以外、ほぼ練習のみの毎日でした。

最終的には、所属していた流派の師範試験を受けて、首席で師範免許をとりました。首席で師範になったからにはプロもアリだと考え始め、大学を出た後も音楽活動をしていたのですが、ライブを開いてもなかなか集客できず、完全な夢見るプー太郎生活を送っていました。

プー太郎生活から会計士になろうと一念発起したきっかけは何ですか?

本屋さんで資格100選という本を見つけたんです。公認会計士のページがあって、なんと年収が6百万円以上と書いてありました。確か弁護士は3百万円以上となっていて、最低報酬が弁護士よりも会計士の方が高かったのです。しかも本には、会計士らしき男性がグアムっぽいビーチでトロピカルジュースを飲んでいる挿絵がありました。香川県のプー太郎からすると、公認会計士イコール優雅に仕事をするお金持ちというイメージでした。

当時はJ-SOXも始まっていなかったので、忙しいのは中間決算と年度末だけで、それ以外の時は長期的な休みをとってバカンスに行けると書いてあり、これは僕のイメージに合うと思い、会計士を目指しました。

高校中退や大学でミュージシャンを目指すなど、会計士試験にたどり着くまで紆余曲折がありましたね。会計士受験を始めてからは順調でしたか?

TAC香川校に入ったのですが、当時は入門・基礎のコースがなくて、1回以上受験経験のある人向けの上級コースしかありませんでした。簿記論の最初の授業が孫会社連結だったような記憶があります。先生が何を言っているのかさっぱりでした。

いきなり上級コースというのは無謀でしたね(笑)。

テストを受けても0点ばかりの最下位。しかも当時は会計士コースに3、4人しかいなくて全員分の点数が貼り出されていました。事務局の女の子たちは「今村さんて馬鹿なのね。馬鹿なクセに学校来て授業受けてる」みたいなノリになっていました。これは授業を受けても意味がないなと悟り、東京や大阪から戻ってきたほかの受験生仲間から入門と基礎のテキストを借りて、勉強を開始しました。

授業を受けずに独学で会計士試験の勉強をして、しかも合格したというのは、聞いたことがないですね。

1回目の試験で奇跡的に短答に合格したのですが、論述試験の民法は「み」の字もやっていなかったのでまったく解けませんでした。試験中あまりにも暇だったので、来年どうやったら論文に合格できるか、1年間の過ごし方みたいな計画を立てていましたね。

落ちた次の日からトップスピードで勉強を開始して年間計画どおりに過ごしたので、翌年は合格することができました。

ただ、答練の成績が急に良くなりすぎて、「ついに香川校から会計士合格者が出る!絶対受かる!」と周りの事務のお姉さま方に騒がれはじめ、逆にすごいプレッシャーがありました。期待されてオリンピック行くとこんな風にプレッシャー受けるのかと思いました。あまりの成績の上がりかたに、カンニングしているじゃないかと言う人もいましたけど、会計士試験はカンニングできませんから。

2初めての東京生活。出世の方法は監査法人時代に習得

合格して知った会計士の現実

地元を離れて東京のあずさ監査法人に就職したとお聞きしています。当時の面接が衝撃的だったというお話ですが。

監査法人は、あずさの国際部か、トーマツのTS(トータルサービス事業部)かで迷いました。あずさの国際部だと外資系クライアントなんか担当して、英語で話しながらスマートにコーヒー飲みながら監査しているイメージでした。一方のトーマツTSは、楽しそうで死ぬまで働き続けられそうな体育会系のイメージでした。TSの方が自分に合っていそうだと思ったのですが、迷って両方受けることにしました。

2006年は合格者が少なく売り手市場の年で、監査法人も合格者を確保するために躍起になっていました。先にあずさの面接に行ったらすぐに内定書が出たのですが、そのままイタリアンレストランに連れていかれて、シャンパンのグラスを持たされました。大半の人は次の面接の予定があったので、「お前はどうする?」「でもシャンパン持って、どうしたらいい??」とザワザワしていて。第1希望じゃなくて裏口から逃げていく人もいましたが、自分は一口飲むだけで顔が赤くなる体質で、すでに真っ赤になっていました。ここで逃げてあずさから内定取り消された上に、トーマツに行って酒飲んだ状態で受けて落ちたらどうしようもないと腹を決めて、そのまま飲むことにしました。

今でも仲の良いあずさの同期は、そのとき知り合いました。当時自分は28歳だったのですが、後から聞いたら「顔を真っ赤にして飲んでいるおじさんがいたので記憶に残っている」と、当時大学4年生だった同期に言われました。

あずさ監査法人の国際部は、英語で話しながらスマートにコーヒーを飲みながら監査するというイメージだったそうですが、実際はどうでしたか?

初めてのアサイン先が売上2兆円規模のSEC登録企業で、米国会計基準に基づく監査をしていました。またその年はUS-SOXの導入初年度だったので、日本の監査法人にとってもクライアントにとっても初めての内部統制を経験しました。

前例のない中で1人で1週間に何プロセスも検討しなければならなかったり、いきなりUSGAAPで検討しなければならなかったりと、東京の監査の水準についていくのは大変だと思っていました。

優雅な会計士人生を送れるとイメージしていたのですが、連日のようにタクシー帰りが続き、華麗なアフターファイブとは程遠い生活を送っていました。

あずさ監査法人を辞めて事業会社に転職しようと思ったのは、その辺が理由だったのでしょうか?

早い段階から監査法人でいかに出世するかを考えていました。そのためシニアの時には、監査から監査報酬交渉や受託のサポートまで、監査法人でやることは一通り経験し終えていました。一方で、監査法人でのキャリア熱が急速に冷めていきました。

そんなときに監査法人で早期退職勧奨が始まりました。私は早期退職の対象ではなかったのですが、自分も転職市場の厳しさを感じてみようと思い、履歴書を作って紹介会社に登録しました。

当初は監査法人を辞めるつもりはなかったのですが、ためしに面接を受けたおかげで、自分が監査法人の仕事に飽きが来ていて、似たような仕事を何十年も繰り返すことは厳しいと思っていることに気が付きました。

もちろん、報酬や将来のキャリアを考えると残ったほうが得だとは思ったのですが、まあ、死ぬわけではないし、この機会を逃すと二度と外にでるチャンスはないという気持ちが背中を押し、転職を決意しました。

事業会社で受けた洗礼

デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社に転職したとお聞きしています。

上場子会社の経理副部長ということで採用が決まっていて、事業会社経験もない状態で荷が重いなと考えていました。ところが、子会社のCFOへ就任の挨拶に行ったところ「うちは独自で会計士のベテラン経理部長を採用しましたので、もう副部長は要りません」と突然言われてしまいました。

「今さら言われても困ります。もう今村さんは採用してしまったのですから。受け入れ先を何とか作ってください」と親会社と子会社が揉めはじめて、最終的に新設部署の業務改善課が新設され、そこの課長になることに決まりました。

働く前にポジションがなくなって、しかも当日になってそのことを知らされて、波乱万丈でしたね。

あっさりとポジションを下げられ、また、捨てられた老犬が引き取り手を探すような屈辱的な挨拶までさせられ、怒りしか感じませんでした。採用した親会社サイドからは「むこうも上場企業だから、なんでも思い通りにはならないから」という訳のわからない説明をされて、翌日から出向で放り出され、私の事業会社生活が始まりました。

新設された業務改善課には「とりあえず決算早期化して」というミッションしかなくて、どのくらい早期化を目指すのか具体的な目標もありませんでした。経理の資料を見ようにも業務改善課と経理課は課が違うからという理由で、アクセス権さえもらえませんでした。経理課の社歴の長い課長やスタッフからは、親会社から押し付けられた会計士の人という目で見られ、「これが転職の怖さかぁ~」としみじみ感じました。

自由にできない困難な状況で、しかも助けてくれる仲間もいない中で、どのように業務を進めたのですか?

たまたま席が隣だった、グループ管理をしている会計士の桑本氏と(今はPCPという会計士紹介会社の代表取締役)、また、入ったばかりのベテラン経理部長の会計士と意気投合して、何とかデータ入手が可能な状態となり仕事ができ始めました。

経理部長もお局集団の経理課には手を焼いていたので、このチャンスを逃すまいと部長の仕事を1から10まで請け負った結果、成果が出始めました。あわせて、定時後は出向元の親会社で終電まで働くか、親会社のお偉いさんたちと酒を飲みながら子会社の近況報告や改善アクションプランの説明をするなど、監査法人以上に働き続けました。土日もフル出勤で人の3倍以上働くというパフォーマンスをやり続けて、ようやくその年の秋に経理副部長のポストを作ってもらい、当初の約束どおりのポストに就任することができました。

その後、親会社に戻られたということですが、出向から戻るきっかけはなんだったのでしょうか?

転職して1年たったとき、子会社にいる限りまた親会社からお偉いさんがやってくるだろうから、親会社に上がらなければ事業会社での未来はないと思い始めました。それで副部長となったあともひたすら成果を出し続け、特にグループ全体に貢献できるような目に見える成果を出し続けようと考えました。

単に経理を締めるだけでは意味がないので、会計、税務の知識を利用しつつ、現場の担当の人たちともコミュニケーションをとり続けました。現場を踏まえた様々な業務改善を行い、明らかなコスト削減や基幹システムの導入、利益率改善といったテーマに取り組みました。そういった活動が評価されたのか、転職して約1年、2014年4月に出向解除とともに、親会社の経理財務部長への就任が決まりました。

親会社での勤務~経理部長から経営管理全般のキャリアを構築~

親会社に戻ってからも、経理財務部長から経営管理本部副本部長まで出世していらっしゃいますが、スピード出世をするためにどのような働き方をされましたか?

親会社の経理財務部長に就任してからも、初めの1年、いや数か月で勝負が決まるという意識の下、これまで以上に馬車馬のように働きました。経営陣からこれまでの経理・財務部に対する問題点、課題点を聞きだし、それをすべて半年内に片づけることをミッションとして、個人の目標管理シートにすべて書き込みました。

腹を括って仕事に取り組んだ結果、部下、上司、また関連部署の方々に恵まれたこともあり、翌年に本部のシニアマネージャー、さらに翌年に副本部長と昇格し続けることができました。

現職であるジャパンエレベーターサービスホールディングス株式会社に転職されていますが、きっかけはなんだったのでしょうか?

自分の中では達成感と同時に、このまま今の会社で経営層を目指すべきなのか、自分のキャリアについて悩み始めていました。今の会社でも成果を出し続けていればCFOを目指せるとは思ったものの、それには10年くらいかかりそうで、時間軸としてそういったスピード感でよいのだろうか、もっともっと人生もキャリアも加速的に築かなければいけないのではないかという切迫感に駆られていました。

ちょうど、非常に優良な会社からいくつもオファーをいただき始めて、その中で特に興味を持ったのが、現在のエレベーターメンテナンスの会社でした。そのビジネスモデルや成長性もさることながら、代表CEOと話し、非常に社会貢献性が高い会社であると感じました。かなり悩んだ末に、最終的に2016年の終わり、監査法人を出てから約3年半過ごした会社から2回目の転職に踏み切りました。

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